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「俺たちの頃はもっと辛かった」を克服したい

 なんとなく最近思っていること。あんまりまとまってないけど何かそんな気分になって書いたただのポエム。


 齢30を越えて、知り合う人が自分より年下な事も増えてきた。

 そんな中で、自ずと後輩を始めとした年下の人たちの悩みや不満を聞く機会も増えてきまして。話を聞く中で、分かるなぁ、私も同じ事で悩んだなぁという事がよくあるもので。私の経験が何かの役に立つといいなーと思ってアドバイスしちゃったりする夜もあれば、ただただ聞き役に徹する夜もある。

 しかしながらそんな自分にも悩みがあり。

 後輩の吐露する、所謂「理不尽と感じているもの」という文脈において、悩みや不平不満を聞くような場面がしばしばあったりする。

  そういう時、自分の中で「それを理不尽と感じるのには共感できるけど、私の頃はもっと辛かったなぁ。なんなら、私の時はもっとひどいこと言われたなぁ。まだマシな方なんじゃない?」って思いがむくむくと鎌首をもたげることがある。
 ことがある、と言うかよくある。

 

 学生時代、先輩が集まるような飲み会があるじゃないですか。酒の力も借りて、普段は言わないけど密かに悩んでいた理不尽に対して、先輩に疑問をぶつける、そんな時もあるもので。
 そういう折、「俺はもっと辛かったんだから、お前も頑張れよ。俺の代の頃は〜〜(過去の辛かったエピソードが続く)」といったご高説を垂れる先輩を私はとても嫌悪していたことを思い出した。
 今思うとその嫌悪感は、「何でこの人は理不尽を理不尽のままそっとしておいたんだろう」「何なら、この人は何 私の悩みを棄却するかのようにその理不尽を正当化しているのだろう」ひいては「私の悩みは聞いてくれないのに自分は一方的に自己肯定するってずるくね?」というものだった気がする。

  同時に、自分はこうはなるまい。自分が理不尽と感じている物を、後輩にも是として求めるような存在にはなるまい。とも思っていた。

 

 そして数年後、ミイラ取りがミイラとはよく言ったもので、それなりに後輩と接する機会が増えた私にも、そんな過去嫌悪したはずの存在と同じ(と私は思っている)ような感覚が芽生え始めていた。これが老害というものなんだろうか。生まれる一抹の不安。
 人間不安になると理由を求めるもの。どうしてこうなった、とばかりに理由を探していたのだけど、20代半ばでそれなりに辛い思いをした身として、なんとなーく薄ら薄らと感じていたことがあった。

 

 人生において理不尽と感じつつ、何とかかんとか乗り越えられてしまった物に対して、「なくても良いものだった」「目的に対して適切な環境ではなかった」「私は乗り越えられたけど、あれはもっとより良き環境があるべきだった」というように、自分が過去経験した理不尽を、冷静に、確かにそうであったと認めることって、意外と難しいのではないだろうか。心のどこかで、理不尽だったけど、今の自分があるのはそのおかげです。って気持ちがあったりするんじゃなかろうか

 とはいえそりゃそう思いたいよねとも思うのです。何故なら良い悪いに関わらず、人は環境に影響を受ける(と私は思っている)ものだし。理不尽と思う環境によって形成される人格もあるだろうし、その人格で享受できた酸いも甘いもあるだろう。理不尽な環境を乗り越えたからこそ、優しくなれる人もいる。逆もいるけど。


 そして人生のふとした瞬間、今の自分を振り返った時に何故今がこのような状態であるのかを説明する合理的な理由がふいに欲しくなってくることがある。その際に、過去の経験や環境というのが、合理性の説明付けに非常に便利に働いたりする。エントリーシートで自分を説明する時もよく使うし、こんな経験と環境を経て今の私がありますっという説明の仕方はごくごく自然に行われている物かと。

 

 で、それだけなら別に良いんだけど、その合理性が自己認識を規定する1材料であることを逸脱して、その辛さが万人に必要なものだという認識を持ち始めると問題になり始めるのかなと。そう思ったのでした。 

 俺は辛かったが耐え抜いた
  →その辛さがないと今の俺はなかった
   →だからあの理不尽は必要だった
    →だからお前にも必要だよ

 って構図が生まれるのかなぁと。 

 それで何が言いたいかというと、理不尽が必要だと思うのはあくまでそれを経験した人が結果論として合理化したものであって、今ココでその理不尽に悩んでいる人に必ずしも適用できるとは限らないので気をつけたいなぁと思うのです。


 理不尽が過去の物となり、合理化を終えた自分としては、その合理性で彼を説き伏せようとしがちだけど、彼が自分と同じ道を辿りたいとも限らない。

 何なら、過去私が望んだように、先達として自分が経験した理不尽は根幹から解決して後人が同じことで悩まなくて良いようにする。とか、それができないまでも、その理不尽への立ち向かい方を建設的に伝えられるようになりたい。マサカリが飛んでくることは止められなくても、マサカリの的確な受け止め方を伝えるとか。例えばそういうこと。*1

 どうせその理不尽がなくなって次のステップに進んでも、また新たな問題は発生するんだ...。ならばせめて今の理不尽だけでも何とか軽くしてあげられるようになりたいもの。

 

 ということを、熱中症のニュースを見ててふいに思ったのでした。

 昔部活では水飲めなかったよね。今は飲めるけど、それはもう解決できて当たり前の話として、今度は競技自体のレベルが洗練されてきてなかなか勝てないとか、そういう別の問題が出てきたりするんだ。

 

 なんかそんな感じ。30代がんばろう。社会からしたら私もまだまだ若手なんだけどね...。

*1:余談だけれども、根幹からの解決は往々にしてステークホルダー心理的・物理的な利害関係が複雑に絡んでいたりして、根が深く厄介なことが多いということも分かってきた